鬼対峙
変換間違えではないのです。節分の今日、今回の自分の内なる鬼対峙の道のりが一段落したかなという気がして、こんなタイトルになりました。
今週2011/1/31-2/6のうお座の空模様はこのような内容でした。
この時期、
不思議な人物が現れて、見えない魔物を打ち払ってくれるかもしれません。
あるいは、
魔物も、打ち払ってくれる人物も
貴方自身の中にいるのかもしれません。
先日の関西の旅では、フリントがさんざん(笑)鬼の話をしてましたし、折しも鬼とか魔物と向き合う期間になりました。得体の知れなかった時には重かったものが、はっきりと言葉や概念として表れてきたことで、解放されていく体験でもありました。
先日ご相談の電話を受けて話をした後、私の声のトーンを聞いていたフリントから一言「人にアドバイスとして何かを伝える時は、細心の注意をしてもし過ぎることはない」と。そして反省のひととき。
人の為にと一生懸命になる気持ちの中に、エゴ、おごり(驕り)や何らかの曇りはないだろうか?という問いかけ。これが目覚めの道のりを歩んでいく中での、クリムゾンサークルのアダマスのいうMakyo (魔境)かもしれない...と思ったり。
そして今朝「思っても見なかったことを自分が責任(重さ)として抱え込んでいて、それを解放する」ということがおきたのでした。
先日寒さの為に体調を崩して、久しぶりに寝込んでしまったのだけれど、あの体調不良も今回のプロセスの一つだったのかもしれない。身体に先に出て、心の重さとして感じて、気づいて認める。
というような一連の出来事があり、鬼退治よりも鬼対峙かなと思うのでした。
ふと、知り合いの方が「天河の節分祭」に行くとおっしゃってたのを思いだしました。
「天河社では鬼は大いなる御宝をもち、全ての意識を越えて物事を正しく見るという古来からの信仰から「神」として崇め、節分の神事儀礼においても「鬼は内」「福は内」と唱えながら福豆を撒きます」
天河大辨財天社HP より
2011年の節分は内なる鬼をよく知り、鬼を鬼にしてしまう自分の中の根っこを変容させる節目の日となりました。そして新しい年のまた一つの始まりでもあります。
昨日は鰯食べましたが、節分に柊やいわしって実はぴんときてません。柊で目をついたら鬼がかわいそう〜。
今週2011/1/31-2/6のうお座の空模様はこのような内容でした。
この時期、
不思議な人物が現れて、見えない魔物を打ち払ってくれるかもしれません。
あるいは、
魔物も、打ち払ってくれる人物も
貴方自身の中にいるのかもしれません。
先日の関西の旅では、フリントがさんざん(笑)鬼の話をしてましたし、折しも鬼とか魔物と向き合う期間になりました。得体の知れなかった時には重かったものが、はっきりと言葉や概念として表れてきたことで、解放されていく体験でもありました。
先日ご相談の電話を受けて話をした後、私の声のトーンを聞いていたフリントから一言「人にアドバイスとして何かを伝える時は、細心の注意をしてもし過ぎることはない」と。そして反省のひととき。
人の為にと一生懸命になる気持ちの中に、エゴ、おごり(驕り)や何らかの曇りはないだろうか?という問いかけ。これが目覚めの道のりを歩んでいく中での、クリムゾンサークルのアダマスのいうMakyo (魔境)かもしれない...と思ったり。
そして今朝「思っても見なかったことを自分が責任(重さ)として抱え込んでいて、それを解放する」ということがおきたのでした。
先日寒さの為に体調を崩して、久しぶりに寝込んでしまったのだけれど、あの体調不良も今回のプロセスの一つだったのかもしれない。身体に先に出て、心の重さとして感じて、気づいて認める。
というような一連の出来事があり、鬼退治よりも鬼対峙かなと思うのでした。
ふと、知り合いの方が「天河の節分祭」に行くとおっしゃってたのを思いだしました。
「天河社では鬼は大いなる御宝をもち、全ての意識を越えて物事を正しく見るという古来からの信仰から「神」として崇め、節分の神事儀礼においても「鬼は内」「福は内」と唱えながら福豆を撒きます」
天河大辨財天社HP より
2011年の節分は内なる鬼をよく知り、鬼を鬼にしてしまう自分の中の根っこを変容させる節目の日となりました。そして新しい年のまた一つの始まりでもあります。
昨日は鰯食べましたが、節分に柊やいわしって実はぴんときてません。柊で目をついたら鬼がかわいそう〜。
by awakeningarts
| 2011-02-03 18:37
| 法子ブログ
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